館長より、君へ。 2000年 5〜8月

<8月号>

 「生きる力」とは

 文部省が主導する教育改革が進行しつつある。今回はその中で特に気になる、自ら学び考える「生きる力」を育てるという目標について述べてみたい。
 「自ら学び考える」と言うことは至極当たり前のことであり、本来は今更問題にすることではないだろう。いつの時代でも、どこの国でも若者に多かれ少なかれ要求されることである。学習とは教師から教わると同時に、常に主体的な取り組みが必要とされるものである。では、文部省の言う「生きる力」とは何なのか。人間はまともな人間ならば未来に向かって生きようとするものであり、困難や障害があれば、越えようと努力するものである。個々人の能力差はあれ、これも議論の余地もない当然の人間の姿であり、今更、教育目標として掲げること自体異常なことと言わねばならない。もし、現代の子供たちが、本当に主体的な学びの意識を持つことがなく、さらには、未来に向かって生きようとする姿が認められないとしたら、これは大問題であり、民族的、いや生物的絶滅を危惧しなければならなくなるだろう。ここまで子供たちの精神的風土が荒廃し、衰弱しているとしたら、それはもはや、学校のカリキュラムの変更などのレベルの問題ではない。国家的戦略の問題である。民族的歴史的問題であり、文明論的課題かもしれない。もし、このような傾向が子供たちに無視できないほどの割合で生じているとしたら、冗談ではなく、深刻な問題だ。
  文部省は二つの大きな間違いを犯している。一つは「生きる力」をそもそも学校で教えようとしていることだ。「生きる力」は子供が普通の健全な日常生活を送る中で、普通の家族生活の中で、培うものである。両親の愛情の下、家族が共に働き、共に食べ、共に喜び、共に悲しみ、共に助け合う中で自然と身につくものである。教室で教えられて、「ああ、そうですか」と、身につくようなものではない。時には父親に叱られ、時には母親になぐさめられ、時には兄弟喧嘩もし、かと思えば、兄弟で助け合い、町内での行事に参加しては、地域社会のまとまりを感じ、神社仏閣では祖先への崇敬の念を新たにし、史跡を前にしては先祖の営みに思いをはせ、国家の記念日には国旗を掲げて国を思い、国民としての国際的立場を認識する。これは古今東西の国々において当たり前に営まれてきた、極々平凡な、一般市民の生活である。ここに「行きる力」の源泉がある。特別な主義主張も関係なければ、偏狭な政治的思想とも無縁のことである。しかし、人として、一番大切なことではあろう。この営みをすべて学校の教室で背負い込むつもりなのか。数千年の時の流れと何億何千万という人々の生活からにじみ出てくる、人としての尊厳や国民としての誇りまで、全てを学校という不完全極まりない、集団教育の場で身につけさせるつもりか。馬鹿な話である。傲慢と言うべきか。文部省は何を勘違いしているのであろう。
  二つ目は「生きる力」を本当に子供たちに身につけさせたいのならば、また、本当に、今、この国の子供たちが、その必要性があるほど危機に瀕しているのならば、方法はただ一つしかない。この国を根本から変えることである。確かに戦後の日本は極めて不自然な国家として再出発してしまった。国家としても国民としてもバックボーンが存在しないのだ。米国の属国的立場は否定できないだろう。核の傘のもとの経済的繁栄を享受している以上、国際的には発言権すらないのが本来の姿だ。国民の手による新憲法の制定によって、国として生まれ変わることから しなければこの国の民を立て直すことは出来ないだろう。国からしてまず自立しなければなるまい。国が主体性を持たずして、どうして国民に主体性を求めることが出来ようか。子供の再生は、大人の覚醒から始めなければならないのだ。戦後の混乱期に育ち、誇りよりも、食べるものを求めざるを得なかった世代に育てられたのが、今の子供たちの親である。価値観の混乱も、伝統との断絶も、全ては今の子供たちにマイナスの要因として働いているのだ。文部省は勇気を持って、その事実を国民に訴え、学校としての守備範囲を明確にすべきだろう。子供たちの教育には家庭と国のあり方が最も重要な基礎となるといってよいのだ。指導要領などと言う問題ではないのだ。この国が国家として本然の姿を取り戻した時、大人も、そして子供たちも健全な精神を取り戻すのだ。
 新指導要領の要諦が「生きる力」にあるとすれば、とんでもない間違いである。この新指導要領は直ちに廃棄すべきだ。根本的に最初から視点を改めるべきである。教育は国家百年の大計ともいわれる。たかが学校、されど学校である。そういう一面を否定するわけではない。いや、だからこそ、誤った教育は正さなければならない。学校は学校として本来的にやるべきことが山ほどあるはずだ。国民として必要な基礎知識の習得である。国語、算数、数学、理科、社会の従来的学力のレベルアップと、それらの知育とバランスのとれた体育や社会規範教育の充実を図ることが急務であろう。また日本人として恥ずかしくないような伝統的日本文化への理解も必要だろう。文部省は視点を変えるべきだ。学校はどちらかと言えば、効率的な知識的情報伝達の場である。この基本的存在意義を忘れてはならない。それ以外は家庭と社会が受け持つべきことである。いや、もしかして、家庭と社会にその教育力が無いために、全てを承知の上で、文部省が今回の改革を敢えて断行しようとしているとしたら、もはや、この国に未来はないだろう。日本は21世紀中には滅んでしまうだろう。日本は亡国への道を突き進んでいることになる。はたしてそれは事実なのだろうか。これは諸君の将来に関わる重大事だ。それこそ主体的に考えてもらいたいものである。
 

<7月号>

競争せよ

 戦後の日本は国家として不完全な姿で再出発した。自主憲法を制定できなかったことがその最大の原因だが、国家としての曖昧さは教育の世界にも大きな影響を及ぼした。守るべき伝統文化を否定し、国民の歴史を否定し、国民としての誇りをも喪失せしめたのである。日本国民としての教育はここに壊滅的状況を呈した。そして、その虚に恐るべき亡国の思想が侵入し、教育界を広く覆った。悪平等主義ともいうべき平等至上主義がそれである。競争をマイナスのイメージでとらえて否定し、個々人の能力の違いを無視して、結果の平等を強制した。運動会で全員が一緒に手をつないでゴールインするという馬鹿げた現象もその一つである。平等至上主義は必然的に何事も上よりも下に合わせざるを得ない。優秀な児童よりも能力的に劣った児童、生徒に合わせた結果、国民の学力は低迷の一途をたどっている。入試制度しかり、カリキュラムしかり。優秀な者を最優先せよとまでは言わないが、個々の児童生徒がその得意な分野で正々堂々と競争し、切磋琢磨することができるような環境が絶対に必要である。さらに、先生と生徒との社会的立場の違いを否定するという、間違った指導が家庭におけるしつけの崩壊とあいまって学校教育を危機的状況に導いている。自由な競争は人間社会の発展と個人の幸福追求のためにも絶対に必要なことである。敗者や弱者への配慮も社会的活力があってこそ実現できるのだ。競争を否定する思想は社会を停滞させ、亡国へと導く悪魔の思想と言ってよい。ソビエト連邦の崩壊を教訓にせよ。正々堂々と競争せよ。競争は善である。競争での勝者を称え、認める社会こそが、無尽蔵の国民的エネルギーを生み出すのだ。青年よ、競争せよ。切磋琢磨せよ。諸君の向上心こそがこの日本を支えるのだ。祖国日本のためにも、そして諸君一人一人の人生のためにも競争せよ。
 

<6月号>

英語論

 日本は今、英語ブームに沸き立っている。とうとう英語第二公用語論まで飛び出してきた。もはや拱手傍観してはいられない。英語を今の日本社会の中でどのように位置づけたらよいのか。言語学の専門家でもなければ、社会学や教育学の専門家でもない館長が口を出す資格はないかもしれないが、塾人としての立場から愚見申し上げてみたい。
 第一に外国語学習は純粋な言語学的な動機は別として、経済的、政治的、教育的動機を持つものであり、その時代の政治的、経済的、あるいは歴史的状況に大きく左右されるものである。第二次大戦の敗北によって日本の戦後の歩みは国家として大きく歪んだものとなったが、勝者となったアメリカの言葉が戦後の世界でのさばってくるのは当然の成り行きであろう。さらに高度情報化社会の牽引力として英語は全世界にその言語的侵略の触手を伸ばしたのである。この流れを変えることは今やほとんど不可能に近い。無論、かの大英帝国が没落したように、アメリカも将来、国際舞台から軍事的にも、政治的にも、経済的にもその地位を失っていく可能性はある。しかし、近未来における国際情勢を予想してもその可能性は低い。英語は確実に万国共通の言語としての地位を築きつつある。第二公用語論も一理あると言うべきだろう。
 しかし、である。言語は文化の母体であって、国家や民族の基盤をなすものである。つまり、我々日本人にとって一番大切な言葉はとりもなおさず、母国語としての日本語である。我々の歴史を語る時も、新たな文化を創造していく時も、我々日本人は日本語で行うべきであって、いや、日本語でなければ誇りある活動はできないのだ。この真理をわきまえた上での英語論の展開でなければならない。公用語化もいいだろう。小学校からの英語学習もいいだろう。しかし、大切なことは、日本語をおろそかにしてはならないことである。まずは、正しい、美しい日本語を学ぶことである。これなくしては、いかなる英語論も意味を成さないことを肝に銘じるべきである。
 第二には英語学習の目的を戦略的にも、戦術的にも、しっかりとさせることである。外交のためか、国防のためか、金融取引のためか、単なる友好親善のためか、情報収集のためか、政治的工作活動のためか、学問的研究活動のためか、それとも旅行のためや呆け防止のためか、いずれにしろ明確な目的を持つことである。決してブームに流されないことだ。一種のファッションとして学ぶようなら、学ばない方が良い。その意味からすると、学校から全ての英語のカリキュラムを撤廃させ、民間の語学学校などに任せると言うのも一理あろう。嫌々ではなく、目的意識をしっかりともった者がその目的に応じて学べるシステムこそ開発すべきだ。これは民間の仕事にふさわしい。真剣に検討して欲しい案だと思う。
 第三は英語を実際に学んでいる者への提言だが、真の国際人は国際的な知識ばかりでなく、母国の言語と文化をしっかりと身につけていることも絶対に必要な条件だということである。中身の無い会話は意味が無いのだ。世界の歴史も、日本の歴史も、更にあらゆる幅広い知識を必要とするのだ。徳川家康がどんな人物か説明できない日本人など、国際的には誰も相手にしてくれないだろう。相手の国への理解も必要だ。言葉だけでは駄目なのだ。文法の練習問題も必要だろうが、文法を理解しているだけでは意味が無いのだ。外国語で何を伝え、何について議論するのか、そうした中味が大事なのだ。積極的な目的を持つこと。そしてそのために必要な中味を充実させること。
 日本が21世紀において没落するか、繁栄するかは、英語とどのように向き合っていくのかにかかっている、といってもよい。日本人の英知が今、試されようとしているのだ。若い諸君の奮闘に期待する。
 

<5月号>

歴史感覚を取り戻せ

 10代の若者が犯した殺人事件のニュースが毎日のようにテレビや新聞で報道されている。暗澹とした気持ちになるが、嘆いてばかりではいけない。その原因を探り、対策を立て、実行し、この状況を一日も早く打開する必要がある。戦後の日本社会の有様(ありよう)が、子供たちの心をいつのまにか荒(すさ)んだものにしてしまったのだろうか。確かに日本は敗戦によって未曾有の混乱に直面したと言ってよい。戦前の古き良き価値観も、世界に誇る礼の精神も、道徳も、教育の場としての家庭も、全てが崩壊したのである。軍国主義を切ったのは良い。しかし、国民として本来、誇りを持つべき数千年にわたる祖先の歴史を断ち切り、つまりは日本人としての誇りを捨て、自立国家としての道を後世に委ねたのである。ひたすら経済復興至上主義の道を突っ走った戦後社会は、ここに始まった。悪平等主義、私権の野放図な拡張、経済利益至上主義などが人々の心を占領した。GHQの占領政策による洗脳ばかりではなかった。拝金教とでも言うべき、新たな宗教が国民を洗脳したのである。だが、経済が順調に発展しているうちは、その弊害はまだ、表面にまで噴出してこなかった。無我夢中で皆が突っ走っていたからである。バブルの崩壊が戦後の日本のあらゆる矛盾と不正義を一気に表面化させたのである。夢と希望を失った社会は、さらに虚無的な若者群を増殖させた。対策はあるのか。教育だけの問題ではない。社会全体が、その有様の変革を求められているのだ。戦後社会の根本的な見直しと改革である。国家の有様については、別の機会に譲るとして、身近な問題として訴えたいことの第一は全人的な教育の基礎を固める家庭の再生であろう。経済界も、いや何よりも親たちの覚醒が必要なのだ。そして、それを支える柱こそが正しい歴史感覚なのである。祖先の歩みの延長線上に今、この時を生きているという、言い換えれば自己存在の歴史的確認といっていいだろう。この歴史感覚は人を更に希望あふれる未来へと導くのだ。歴史を見失った民族は必ず滅びるという。日本が亡国への道を歩まないよう、誇りある歴史を取り戻さなければならない。大人たちが歴史を取り戻した時、その時になって初めて、健全な若者の育成が始まるのである。

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