館長より、君へ。 2000年 9〜10月

<10月号>

教育再生論(2)

 前回の教育再生論では総論として日本の教育の問題点を探ってみたが、今回はその各論として。具体的な改革案を提示してみたい。机上の空論とならぬよう、塾での指導体験を踏まえたものにしたい。基本的には自由競争社会を維持することを前提にして、国民全体の向上を図ることが望ましい。

 (1)レベルをアップせよ。
 中3で三角比は十分理解できる。開成など進学校が中学で高校の数学に入っていることは周知だが、公立中学でもその基礎は教えるべきだ。他の科目も基本的には同様にレベルを上げるべきである。新指導要領は全廃すべきだ。今からでも遅くはない。但し、高校では科目選択の幅を広げてもいいだろう。こうした議論でいつも問題となるのは落ちこぼれへの対応である。確かについてこれない者はいよう。しかし、レベルを下げてもやはりついてこれない者は必ずいるのだ。問題はそういう生徒への教師の対応の仕方である。ここで大切なことは、世間に言う落ちこぼれの大半は実は能力的には落ちおぼれではないということだ。やる気がないだけなのだ。塾で指導してきた経験はそれを立証している。やる気を出させることが大事なのだ。ただし、これを全て学校の教師に求めるのは間違っている。家庭の再構築こそが重要なのだ。それについては後述する。

  (2)入試は厳しくせよ。
 国立大学の入試機会を増やそうとしているようだが、とんでもない誤りである。何処まで日本の若者を甘やかせれば気が済むのか。いい加減にして欲しい。AO入試に至っては目茶苦茶である。生徒確保のためにこの国の大学関係者は国を滅ぼすつもりなのか。つぶれる大学はつぶれればよい。若者を甘やかすことは、その精神を堕落させることであり、堕落した精神は国を危うくさせる。自明の理だ。同様に公立高校の推薦入試も全廃すべきである。百害あって一利なしである。自由競争をさせるための規制緩和は必要だが、精神を弛緩させる制度は断固廃止すべきである。ついでだが、卒業も厳しくすべきだ。大学はレジャーランドではないのだ。

 (3)30人学級を実現せよ。
 先生は足りているはずである。無能な無駄飯食いが多すぎるのだ。40人もいれば木目細かな指導は不可能に近い。礼儀正しい生徒たちばかりとしても40人はきつい。30人学級実現は可能なのだ。1995年の文部省の統計によると、教師の4人に1人は授業を持っていない。学校における官僚主義の弊害である。30人でも決していいというわけではないが、かなり個別的対応が出来よう。学力別指導も科目によっては可能となる。ただし、これには人口の大都市への集中現象を是正する必要があろう。インターネットの普及発達はこの解決に一役買うかもしれない。

 (4)5日制の受け皿を用意せよ。
 土曜日曜の部活の廃止は、半分は評価できるが、社会全体の協力体制を考えずに生徒たちを家庭に戻すことには疑問がある。家族が一緒に過ごす時間の確保が大切だ。また、地域社会の受け皿も必要だろう。スポーツクラブや文化教室、それに塾も。あるいは子供たちのコミュニケーションが取れるような空間的環境の確保も必要だ。緑豊かな広々とした公園などは、都市の市民の憩いの場としても必要なものである。

 (5)歴史教育を充実させよ。
 総論でも述べたが、歴史感覚はアイデンティティーの確立には欠かすことが出来ない。戦後の日本における異常性は歴史感覚の欠如にある。小学一年生から「国史」として、たっぷりと先人の事績に触れさせる事である。中学校の教科書は今の3倍くらいの分量が必要である。アメリカの高校に留学した塾生から聞いた話だが、アメリカの歴史教科書は膨大な分量だそうである。自虐史観からの脱却についてはここではもう触れない。それは最も基本的な条件である。また、単なる編年体の記述ではなく、紀伝体様式も取りいれて、歴史への興味関心を高める工夫が必要である。神話伝説の類もそれと断った上で掲載すべきだろう。
 

 (6)体育は基礎体力を忘れるな。
 競技スポーツだけではいけない。体育は一生の体力の基礎を築くと共に将来にわたってそれを維持させるような指導が必要である。体格が向上しても体力がないのが現代っ子である。生活環境の変化はますますその傾向を深めさせるだろう。特に足腰の弱さは危機的状況である。一部の突出した、部活で鍛えている者たちはともかく、一般的傾向としては憂うべきことである。短い時間でよいから毎日基礎体力トレーニングをさせるべきである。

 (7)礼儀作法を徹底させよ。
 きちんとした礼義作法を身につけていない者がほとんどだ。礼儀正しい国民と言われた日本人は、一体どこへ行ってしまったのだろう。家庭の教育力が低下し、いやそれどころか、親自体がわきまえていない事が多い時代では、学校がどうしても最後の砦となろう。小学校の一年生から厳しくし付けることである。ハイという返事すらまともに出てこない子供たちを見ていると、荒み切った将来の日本社会が見えてくるようで恐ろしくなる。礼は形だけだと批判する者がいるが、形を整える事がいかに人間の精神に大きな影響を与えるかは今更言うまでもないだろう。ここで付け加えておきたいが、体罰は絶対に必要である。礼儀作法を叩き込むために体罰の導入は当然だろう。猛烈な反論は承知している。しかし、家庭でのしつけがしっかりなされていれば体罰を受ける事はまずないはずである。子供のしつけを学校に押し付けている親は親としての義務を放棄した者として厳重に処罰した方がよい。これは国家の安寧秩序を脅かす犯罪行為である。

 (8)過度な部活動は是正せよ。
 過度な部活動は精神的も肉体的にも生徒たちを疲れさせ、明日への意欲をも減退させてしまう。部活しかやる事がないような生徒の存在を許してはならない。学生は勉強が本分であり、読書もしなければならない。スポーツばかりで頭の中は空っぽといっていいような生徒は生物的に生きる力はあっても、社会的生命力はゼロに等しい。周りへ迷惑をかけるだけでなく、社会にとっては無用の存在になりかねない。その子供にとってもこれは不幸なことであろう。安易な生徒管理として部活部活で生徒のエネルギーを絞り取ろうとする教師もいるが、とんでもない間違いである。知育徳育体育のバランスの取れた教育を行うように努力すべきだ。少なくとも一般的には夕方5時には完全下校とすべきではないか。

 (9)国立大学は民営化せよ。
 10年間同じ講義を繰り返している教授がいるが、そんな教授は即刻首にすべきだ。民営化すれば必ずや大学は変わる。いや、変わらざるをえないだろう。廃校となる大学も出てくるはずだ。当然だ。競争原理を思い切って外からも内からも導入すべきだ。職を失う者が出るという反論が予想されるが、反論にはなるまい。民間企業では当たり前の事ではないか。何を甘ったれているのだ。

 (10)留学生を大量に受け入れよ。
 これは国家的戦略のイロハだろう。日本の教育を受けた親日派、知日派を大量に育成することだ。日本人の学生にとっても刺激となろう。外国人の留学生をホームステイさせた家庭からは税制上の優遇措置をするなどして受け皿も確保すべきである。英語公用語論には疑問があるが、日本語世界共通語化は大賛成だ。そのためには50年から100年くらいの長期計画が必要だが、全国民が協力すれば実現不可能な事ではない。このくらいのスローガンがあったほうが面白い。

 (11)英語は民間に任せよ。
 学校のカリキュラムから英語を全廃せよ。英語を学ぶなというのではない。逆である。もっと堪能な者を量的にも増やすには民間の方が効率がいいからである。国家公務員試験や各種国家試験に英語を必修とすればよい。民間企業でも採用試験で必修とすれば黙っていても皆英語塾や会話学校などへ通うだろう。各家庭で負担する教育費の格差を問題にして反論する者もいるだろうが、総論でも述べた通り、問題とはならない。お金の心配よりも学習効果の方が大事であり、結果的にはプラスとなって戻ってくるだろう。

 (12)新教育基本法を制定せよ。
 現行の教育基本法の文言を検討して、どこをどう改正するとかしないとかは、そもそも問題意識が間違っている。大切な事は憲法と同様に敗戦時において敵国から押し付けられたに等しいということが問題なのだ。どこの国の法律といってもいいような、その国の伝統も歴史も切断したような法律を持たせられていつまで黙って従っているつもりなのか。恥さらしはもう止めようではないか。日本人としての誇りの問題である。何も戦前の皇国史観を復活させよと言っているのではない。子供たちがこの国に生まれてよかったと思うような教育を目指すべきなのだ。この国の大地をしっかりと踏みしめて、誇りと希望を胸に秘め、堂々と世界に向かって胸を張れる子供たちになって欲しいのだ。

 以上12か条にわたって教育への思いを書き連ねてみた。まだまだ言いたい事があるのだが、次の機会に回したい。10年くらい前と比べてずいぶんと違っている意見もある。来年になればまた違った考え方をするかもしれない。その時はまたまとめるつもりだ。論説などというものではなく、単なる感情論になってしまったかもしれないが、了とされたい。
 

<9月号>

教育再生論(1)

 文部省の教育改革が進行しつつある。危機的状況に陥っている日本の教育がこれによって本当に再生し、健全な姿を取り戻すことができるかどうか。楽観は許されない。今までにも何回か、教育改革論を述べてきたが、今回と次回の2回にわたって、その総まとめをしてみたい。今回は、総論として、日本の教育の何処が問題なのかを指摘し、次回では各論として、具体的な改革論を展開したい。 

(1)目標は高く掲げよ。
  何事も計画通りに行うのは難しい。目標の半分でも達成できたらいい方である。3日坊主、計画倒れ、など誰でも一度や二度は経験しているだろう。しかし、だからといって、目標を低く設定すればいいというものでもない。個人個人の能力差にもよるが、一般的に言って、目標を低くしても達成できる割合は同じようなものだ。目標が高すぎるのも問題だが、ある程度は挑戦する意欲と達成感を刺激するくらいの高さが必要である。子供たちの可能性に対しては、もっと信頼感を持つべきだろう。高い目標はストレスを与えるというが、これは大人からみた理屈だ。実際に子供たちを指導してみると、適切な目標の設定は程よい緊張感と前向きな意欲をかきたてることがわかる。個人差は無論あるだろうが、やらせる前から可能性を抑制してしまうような教育は間違っている。文部省のミニマムスタンダード論はその真意がどこにあれ、子供たちの目標値を下げていることに変わりはない。国民全体の学力の低下につながる危険性は大きいだろう。人間の心理的側面を無視した机上の空論といってもよい。
 まして今、国際社会は猛烈な競争時代に突入している。共生の時代という理想を掲げる識者もいるようだが、現実からは乖離した理論だろう。乱暴な言い方をすれば、共生は悪平等主義と結びつき易い。本来は全く違うのだが、結果的に競争を否定し、個人個人の意欲を減退させる。共生という言葉には崩壊しつつある共産主義の焼き直しのようなにおいがある。教育の世界に悪平等を持ち込むことは絶対に避けるべきである。要するに、今必要なのは国民全体の学力向上であり、そのための最善の策が求められているのだ。
  日本の経済界の一部が少数の知的エリートと多数の単純労働者からなる社会構造改革を打ち出しているようだが、愚民化政策が成功する可能性は少ないだろう。日本人の古来から持っている知的な欲求をなめてはいけない。強権をもって押さえつけない限り、国民の知的エネルギーは無限大に解放すべきだ。そのためにも学力の目標値は出来得る限り高いほど良いのだ。
 「落ちこぼれ」対策という視点から反論する者がいるが、それなら「落ち余り」はどうするのだ。彼らが無駄に過ごす時間的精神的エネルギーの損失は大袈裟に言えば、国家的損失である。「落ちおぼれ」的現象はどうやっても生じるものだ。その対策も大切だが、今日の子供たちの精神的ストレスや病理的現象は後述するがもっと別の所に原因がある。カリキュラムにゆとりを持たせれば、学校崩壊現象や不登校が解決すると思ったら大間違いである。
 カリキュラムの目標を高くし、国民全体の学力を更に向上させることが、日本が国際的大競争時代を生き抜くために必要な絶対的な条件である。アメリカは今、高水準の共通教養の教育を目指して教育改革を断行しつつある。文部省こそ覚醒してもらいたいものだ。

 (2)悪平等主義を追放せよ。
 運動会の徒競走で走者全員が手をつないでゴールインという愚にもつかないことをやらせた教師がいることは有名な話である。小生自身、身近な学校で同様な指導を実際に見たことがあり、唖然とさせられた。一体全体、この国の教育はどうなっているのか。とんでもない間違いがまかり通っているのだ。敗者への配慮とか、思いやりとか、共生の論理とか、いろいろと理屈はあるのだろうが、思い違いもはなはだしい。自由競争という理念を素直に受け入れられない左翼の偏向教育もここまでくれば「狂育」とでも言うほかない。
  先に延べた文部省の新カリキュラムも同様の発想である。皆が100点を取れるようにというのだろうが、このような発想を許せば、学力が低下するだけではない。子供たちの向上心も競争意欲も減退、いや消滅し、この国は、人生に前向きに立ち向かおうとしない、怠惰な愚民で溢れかえることだろう。旧ソ連邦における社会主義の崩壊が何を意味しているか、今更議論するまでもないはずだ。個人個人の能力を最大限に伸ばすことの出来るような環境が必要なのだ。昔から切磋琢磨というではないか。互いにライバル意識を持ち、競争する姿こそ、教育の本来あるべき姿である。
 そもそも競争の弊害をあげつらい、共生の思想を叫ぶもの者は、能力のある者、環境に恵まれている者に対する嫉妬から抜け切れない者が多い。競争の否定は社会の停滞と堕落を招来せしめ、悪平等主義は本来の真正な社会的法的平等システムをも崩壊させてしまうのである。「水平化しようとする人間は決して平等をもたらさない」とはエドマンド・バークの至言である。
 悪平等への批判に対する反論として、教育費を負担する財力の格差を指摘し、経済的不平等を攻撃する者がいる。しかし、経済的貧富の差は自由社会においては当然の帰結であり、勿論、富の偏在の行き過ぎは是正すべきとしても、今日的経済格差をもって教育の不平等な社会と決め付けるのは至当な意見とは言い難い。それこそ、自由主義社会の根幹をゆさぶらんとする左翼のあがきであろう。
 さらに、競争によって子供たちの精神的荒廃を訴える者もいるが、日本の戦後社会における子供たちの精神的荒廃の原因は全く別の所にある。これについては改めて問題にしたいが、正々堂々たる競争は、子供たちの意欲と向上心に刺激を与えるばかりか、健全な精神の発達をも促すことは確かである。もし、競争そのものが、それ程悪いものならば、運動競技など一つもできなくなろう。競争が悪いのではない。素直な競争を阻害している、大人社会の偏見や余計なお節介に問題があるのだ。子供たちは子供たちなりに競争を楽しみ、その結果を前向きに受け入れているのが真実の姿である。これは塾での日々の指導体験からも明らかだ。政治的意図を持って競争をさも悪いことのように教える教師の存在こそが糾弾されるべきであろう。
 悪平等という悪魔のような思想を払拭することは学校教育における喫緊の課題である。それは戦後の日本社会が孕む思想的偏向と無縁ではない。解決には時間がかかる事を覚悟せねばなるまい。
 

 (3)公立における推薦は撤廃せよ。
 日本の私立学校は本来の私学とは言い難い。国からの補助金がなければ立ち行かないことは周知のことである。しかし、だからといって私学ならではの世界も温存させねばなるまい。教育の場を自由に選択できることは民主社会の前提でもある。入試方法もカリキュラムもそれなりのものがあってもいい。しかし、公立学校はそうはいかない。そもそも存立事由がことなる。国家が関与する教育は領土的全地域とそこに居住する国民全体を視野に入れて、かつ国家の戦略に基づいたものでなければならない。創設者の個人的な教育理念が尊重される私学とは違うのである。 そこで今、一番問題としたいのが、公立高校の推薦制度である。この制度は二つの点から子供たちの精神を蝕み、極端な言い方を敢えてすれば、廃人同様の存在にしてしまう毒を有している。
 第一に指摘したいのは、推薦制度になくてはならない内申書の存在である。教師による日常生活への過剰なまでの監視を受けている子供たちの息苦しさはおそらく大人たちの想像を絶するものがあろう。子供たちの知的好奇心も活動への欲求も完全に抑圧されているのだ。子供たちは精神的にも肉体的にも窒息状態にあるといってよい。素直な活動への意欲が減退し、逆に推薦を得るために必要な打算的行為を促すことになる。もはやこれでは教育とはいえない。不健全な動機は精神も肉体も堕落腐敗させ、自らを滅ぼすこととなろう。ボランティアを評価対象とするなど、正気の沙汰とは思えない。ボランティアは私利私欲がないが故に尊いのであって、推薦のためのボランティアなど唾棄すべき最も恥ずべき行為である。内申書は高校側が生徒指導上、知っておいた方がよい情報を記録するだけにとどめるべきであって、テストの点数など客観的な記載が出来るものはともかく、教師の主観的な評価は書くべきではない。こう言うとここでも順位や点数などを記載することへの批判があろうが、子供たちは明確な結果は素直に受け入れており、それよりもあいまいな評価基準の存在こそが子供たちに大きなストレスを与えていることを知るべきだろう。内申書はテストなどの客観的数値と行動の客観的記録だけにとどめ、しかも入試選抜に当たっては一切これを排除すべきである。あくまで入学した高校での指導上の参考資料としてのみ使用するのが至当であろう。
 第二に問題としたいのは、そもそも一般入試とは別に推薦によって入学が決まってしまうという制度が、生徒たちに与える負の影響である。受験戦争による生徒の心の疲弊を救おうとする大人たちの論理は、実は生徒たちにとっては、余計なお世話でしかない。入学試験の点数によって上から順番に合格が決まるシステムこそが一番生徒のストレスが存在しない方法なのだ。平等で明確な選抜方法こそ目標への健全な努力を促し、受験は生徒たちの人間的な成長に寄与する人生の試練として位置づけることができるのである。推薦制度は子供たちにに安易な打算的な道を選ばす。何と愚かな制度であろう。亡国の制度と言ってよい。次代を背負う青少年から、純粋に切磋琢磨し競争する意欲を奪い取り、広き門より入らんとする卑しい精神を植え付ける制度は一日も早く撤廃すべきである。さらに言えば、これが、私立学校に生徒を奪われたくないための制度とすれば、もはや公立学校はこの国の教育的基盤を確立するどころか、国民の精神的荒廃を助長させる亡国的存在へ成り果てたと言えよう。公立学校は恥を知るべきだ。
 公立学校の推薦制度は全廃すべきである。学校の存続を心配するものもあるが、それこそ教師の試練と心得て切磋琢磨すべきだろう。推薦制度に頼らぬ気概を教師たちがみずから見せれば、自ずと生徒たちの心も変わってこよう。この国にも国民としての気概が生まれよう。

 (4)自虐史観から脱却せよ。
 戦後の占領政策は日本人から国民としての気概も誇りも失わしめた。多くの日本人は精神的支柱を持たぬ根無し草の民と化したのである。今までの価値観を根底から覆された国民の精神的混乱は半世紀以上を経た今日にも大きな影響を残している。その上、左翼の政治的思想的攻勢は教育にも拭い切れないほどの傷痕を残した。ソ連邦崩壊後も野放図なまでの人権拡張論や共生を求める社会民主主義として、なおその影響力を残している。こうした戦後の思想的土壌の中にあって、どうしても解決しなければならないのが、極東軍事裁判という復讐裁判によって国民に押し付けられた自虐史観である。
  ここで社会科や国語の教科書に見られる自虐史観を具体的に取り上げる必要はないだろう。もはや一般国民にとっても周知のことである。世界の何処に祖国を悪し様に罵り、世界で一番悪い国として位置づけようとする国があろう。全く正気の沙汰ではない。子供たちから祖国への誇りも、、国民としての気概も、全てを奪い取った罪は重い。万死に値するといってよい。戦後の教育は言わば亡国の教育であった。人は祖霊への崇敬の念を忘れず、先人たちの歩んだ道を思い、その労苦に敬意を表すると共に、その恩恵に対して深く感謝し、祖先の築いてきた祖国の歩みの延長線上にある自分の生命を実感し、誇りと気概を持って、明日への希望に胸ふくらませながら、自らの国民としての使命を果たすべく、人生の道を歩んでいくものである。戦後の教育は、人間におけるこの尊い、永遠の摂理を恐れ多くも木っ端微塵に破壊し、一国の国民精神をして、古今東西にも希な荒涼たる風景となさしめたのである。
 経済至上主義と効率最優先主義は、核の傘という絶妙にして、狡猾な防御システムの下、確かに未曾有の経済的繁栄をもたらした。経済が順調に発展しているうちはまだよかった。ひたすら生活の向上に向かって走れたからである。しかし、バブル崩壊後、人々は自らの心象風景に愕然とすることになるのだ。戦後の混乱期に青少年時代を送った世代を責めることは出来ない。そしてその親たちに育てられ、高度経済成長期に青春を送った今の親たちを責めることも出来ないだろう。時代の流れが、その根底にある自虐史観が、この国の教育を崩壊させたのである。核家族とその家族生活の崩壊がさらに追い討ちをかけた。もはや子供たちを取り巻く環境は救いようがないほどまでに荒廃したのである。望みはないのか。いや、ある。乾坤一擲ともいうべき方法が。
 それは自主憲法の制定である。この国を国民自ら建国し直すのである。本来の伝統を再確認し、国民としての歴史を取り戻し、反国家から自立国家へと勇気を持って突き進むのだ。と同時に家庭環境を再構築しなければならない。両親の愛情こそが子供たちの心に本当のゆとりと生きる力を与えるのだ。
 自虐史観から脱却せよ。国民が真の国民として覚醒する時、この国の教育も本然の姿を取り戻すだろう。

 以上、4つの視点からこの国の教育を再生させるための課題を探ってみた。反論もあろう。当然である。これをたたき台として多いに論じ合って欲しいものだ。独断と偏見の固まりと批判されることを恐れてはならない。批判されても構わない。大切なことは批判されたら、謙虚にそれに耳を傾けることだ。様々な意見の存在を認める所から民主主義は出発するのだ。

バー

HOME   BACK   e−mail