<9月号>
教育再生論(1)
文部省の教育改革が進行しつつある。危機的状況に陥っている日本の教育がこれによって本当に再生し、健全な姿を取り戻すことができるかどうか。楽観は許されない。今までにも何回か、教育改革論を述べてきたが、今回と次回の2回にわたって、その総まとめをしてみたい。今回は、総論として、日本の教育の何処が問題なのかを指摘し、次回では各論として、具体的な改革論を展開したい。
(1)目標は高く掲げよ。
何事も計画通りに行うのは難しい。目標の半分でも達成できたらいい方である。3日坊主、計画倒れ、など誰でも一度や二度は経験しているだろう。しかし、だからといって、目標を低く設定すればいいというものでもない。個人個人の能力差にもよるが、一般的に言って、目標を低くしても達成できる割合は同じようなものだ。目標が高すぎるのも問題だが、ある程度は挑戦する意欲と達成感を刺激するくらいの高さが必要である。子供たちの可能性に対しては、もっと信頼感を持つべきだろう。高い目標はストレスを与えるというが、これは大人からみた理屈だ。実際に子供たちを指導してみると、適切な目標の設定は程よい緊張感と前向きな意欲をかきたてることがわかる。個人差は無論あるだろうが、やらせる前から可能性を抑制してしまうような教育は間違っている。文部省のミニマムスタンダード論はその真意がどこにあれ、子供たちの目標値を下げていることに変わりはない。国民全体の学力の低下につながる危険性は大きいだろう。人間の心理的側面を無視した机上の空論といってもよい。
まして今、国際社会は猛烈な競争時代に突入している。共生の時代という理想を掲げる識者もいるようだが、現実からは乖離した理論だろう。乱暴な言い方をすれば、共生は悪平等主義と結びつき易い。本来は全く違うのだが、結果的に競争を否定し、個人個人の意欲を減退させる。共生という言葉には崩壊しつつある共産主義の焼き直しのようなにおいがある。教育の世界に悪平等を持ち込むことは絶対に避けるべきである。要するに、今必要なのは国民全体の学力向上であり、そのための最善の策が求められているのだ。
日本の経済界の一部が少数の知的エリートと多数の単純労働者からなる社会構造改革を打ち出しているようだが、愚民化政策が成功する可能性は少ないだろう。日本人の古来から持っている知的な欲求をなめてはいけない。強権をもって押さえつけない限り、国民の知的エネルギーは無限大に解放すべきだ。そのためにも学力の目標値は出来得る限り高いほど良いのだ。
「落ちこぼれ」対策という視点から反論する者がいるが、それなら「落ち余り」はどうするのだ。彼らが無駄に過ごす時間的精神的エネルギーの損失は大袈裟に言えば、国家的損失である。「落ちおぼれ」的現象はどうやっても生じるものだ。その対策も大切だが、今日の子供たちの精神的ストレスや病理的現象は後述するがもっと別の所に原因がある。カリキュラムにゆとりを持たせれば、学校崩壊現象や不登校が解決すると思ったら大間違いである。
カリキュラムの目標を高くし、国民全体の学力を更に向上させることが、日本が国際的大競争時代を生き抜くために必要な絶対的な条件である。アメリカは今、高水準の共通教養の教育を目指して教育改革を断行しつつある。文部省こそ覚醒してもらいたいものだ。
(2)悪平等主義を追放せよ。
運動会の徒競走で走者全員が手をつないでゴールインという愚にもつかないことをやらせた教師がいることは有名な話である。小生自身、身近な学校で同様な指導を実際に見たことがあり、唖然とさせられた。一体全体、この国の教育はどうなっているのか。とんでもない間違いがまかり通っているのだ。敗者への配慮とか、思いやりとか、共生の論理とか、いろいろと理屈はあるのだろうが、思い違いもはなはだしい。自由競争という理念を素直に受け入れられない左翼の偏向教育もここまでくれば「狂育」とでも言うほかない。
先に延べた文部省の新カリキュラムも同様の発想である。皆が100点を取れるようにというのだろうが、このような発想を許せば、学力が低下するだけではない。子供たちの向上心も競争意欲も減退、いや消滅し、この国は、人生に前向きに立ち向かおうとしない、怠惰な愚民で溢れかえることだろう。旧ソ連邦における社会主義の崩壊が何を意味しているか、今更議論するまでもないはずだ。個人個人の能力を最大限に伸ばすことの出来るような環境が必要なのだ。昔から切磋琢磨というではないか。互いにライバル意識を持ち、競争する姿こそ、教育の本来あるべき姿である。
そもそも競争の弊害をあげつらい、共生の思想を叫ぶもの者は、能力のある者、環境に恵まれている者に対する嫉妬から抜け切れない者が多い。競争の否定は社会の停滞と堕落を招来せしめ、悪平等主義は本来の真正な社会的法的平等システムをも崩壊させてしまうのである。「水平化しようとする人間は決して平等をもたらさない」とはエドマンド・バークの至言である。
悪平等への批判に対する反論として、教育費を負担する財力の格差を指摘し、経済的不平等を攻撃する者がいる。しかし、経済的貧富の差は自由社会においては当然の帰結であり、勿論、富の偏在の行き過ぎは是正すべきとしても、今日的経済格差をもって教育の不平等な社会と決め付けるのは至当な意見とは言い難い。それこそ、自由主義社会の根幹をゆさぶらんとする左翼のあがきであろう。
さらに、競争によって子供たちの精神的荒廃を訴える者もいるが、日本の戦後社会における子供たちの精神的荒廃の原因は全く別の所にある。これについては改めて問題にしたいが、正々堂々たる競争は、子供たちの意欲と向上心に刺激を与えるばかりか、健全な精神の発達をも促すことは確かである。もし、競争そのものが、それ程悪いものならば、運動競技など一つもできなくなろう。競争が悪いのではない。素直な競争を阻害している、大人社会の偏見や余計なお節介に問題があるのだ。子供たちは子供たちなりに競争を楽しみ、その結果を前向きに受け入れているのが真実の姿である。これは塾での日々の指導体験からも明らかだ。政治的意図を持って競争をさも悪いことのように教える教師の存在こそが糾弾されるべきであろう。
悪平等という悪魔のような思想を払拭することは学校教育における喫緊の課題である。それは戦後の日本社会が孕む思想的偏向と無縁ではない。解決には時間がかかる事を覚悟せねばなるまい。