館長より、君へ。 2001年 1〜2月

<2月号>

 世界に目を向けよ

 マケドニアのスコピオで開催されていた南東欧州協力会議(SEECP)首脳会議は23日、ユーゴスラビア・コソボ自治州とその周囲での「民族間の憎悪に起因した暴力行為が地域に拡大するのを防ぐための緊急措置」を強く求める共同宣言を採択して閉幕した。日本のマスコミは例によってほとんど話題にもしなかったが、世界の民族や宗教による対立と抗争が如何に深刻なものになっているか、日本人はもっと知るべきだろう。そして悲惨な境遇にいる子供たちのことを考えるべきだろう。勿論、考えただけでは何の解決にもならないだろうが、少なくとも、そうした現実を知ろうとすることは大切なことである。コソボだけではない。イスラエルとパレスチナでも、チェチェンでも、アフリカでも、世界中で紛争の種は尽きず、殺戮や虐待が行なわれている。両親を目の前で虐殺され、自分自身も死ぬほどの虐待を受け、或いは殺された子供たちの数は想像を絶している。おびただしい数の子供たちが肉体的、精神的苦痛にあえいでいるのだ。ここまで精神も肉体もズタズタにされた子供たちを本当に救うことは不可能と言ってよい。しかし、少なくとも我々は知らなければならない。同じ地球に生を受けた者として知る義務があろう。日本は国際社会の中では、温室国家と行っていいだろう。生ぬるい空気の中で、過保護に育っている日本の子供たちは、紛争に巻き込まれない点では幸せであるかもしれないが、だからといって、決してひ弱にはなって欲しくない。世界にもっと目を向けよう。これだけ自由に勉強が出来る環境は世界でも珍しいのだ。入試がなんだ。テストがなんだ。部活がなんだ。宿題がなんだ。勉強の辛さなど、何でもない。保護者に付き添われ、塾の先生たちからはうるさいほどの声援を受け、試験会場に入る子供たちの姿を見ていると、甘ったれるなと、叫びたくなる。どこかの学校では、塾ごとに試験会場を設け、子供たちがリラックスできるような「配慮」をした学校もあるらしいが、とんでもない「配慮」である。これはテストの平等の原則に反するもので、当局は問題視しなければならないのだが、それは別にしても、この「配慮」は明らかに間違いだ。本来、子供たちに試練の場を与えることが教育の真の目的である。これ以上、日本の子供たちを甘えさせてどうするつもりか。いい加減にしてほしい。その学校の校長は教育者としては失格だ。亡国の徒と言った方がいいかもしれない。本当に馬鹿げた話である。呆れてものが言えないほどだ。我が北辰館では22年間の受験指導を通じて、試験当日に試験会場で声援を送るなど馬鹿げたことは一度もしたことはない。これは試練なのだ。最後は一人で立ち向かって行くことが大切なのだ。経営至上主義で教育者としての道を踏み外した、どこかの学校ばかりではない。周りで騒いでいる塾の先生たちも反省すべきだ。そんな「激励」を喜んでいる親も親だ。日本人よ。温室感覚から脱却せよ。
 

2001年<1月号>

新世紀への誓い

 新世紀を迎え、希望に満ちた言葉を書きたかったが、成人式の報道が、それをさせてくれなかった。現代の若者たちの実状を、普通の人たちよりはわかっていた館長でも、やはりあれは許せないことである。勿論、全ての若者がああだと言う訳ではない。いや、多くの若者はあれほどではないだろう。しかし、である。一部の者とはいえ、あのような礼節をわきまえず、社会人としての自覚もなく、公共心のかけらもない若者が存在することは許し難い。もはや日本国の将来は亡国あるのみか。希望に満ちた言葉など、とんでもない。恥ずかしくて恥ずかしくて、怒りよりも意気消沈してしまった。今年からこの「館長より、君へ」もやめようかと思った。パソコンの前に座っても、何を言っても無駄な気がして、何も言いたくなくなった。一度日本は滅びてしまった方がいいのかもしれない、とまで思うようになった。しばらくの間、何もかも本当にやる気がしなくなった。しかし、入試を控えて最後の追い込みに頑張っている塾生たちを見ているうちに、こんなことで意気消沈している場合ではないと思い直した。一人の小学生の塾生が「何としても合格してやる」と帰りがけに叫んだのが、はっと目が覚めたきっかけである。そうだ、今ここで頑張っている子供たちを見るがよい。皆、目を輝かせて、希望に胸をふくらませて全力を尽くしているではないか。そうだ、彼らには無限の可能性があるのだ。館長として彼らの思いに応えてやらねばならない。やることは山ほどあるのだ。危ない所で館長は復活できた。もう迷うまい。新世紀の初頭にあたり、自らの本分を尽くすことを改めて誓いたい。

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