館長より、君へ。 2001年10月〜2008年12月

2008年<12月号>

  1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落した。「暗黒の木曜日(Black Thursday)」である。29日、更なる大暴落が発生した。株価は9月の半分となり、この数日間で約300億ドルが失われた。これは当時の米国連邦年間予算の10倍に相当した。この日は「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれた。しかし、この経済的打撃が世界恐慌へと発展したのは1931年である。この年の5月11日、オーストリアの大銀行クレジットアンシュタルトが破綻、突然閉鎖した。銀行の連鎖的倒産が続き、経済危機はヨーロッパに、そして世界各国に波及した。アメリカでは株価は恐慌発生前と比べて80%以上下落し、工業生産は3分の1以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。植民地を利用できる欧米諸国はブロック経済政策をとり、ダメージの軽減に努めたが、容易には回復できなかった。日独伊では全体主義が台頭する。世界は第2次世界大戦へ突入していくのである。ニューディール政策は効果を発揮しなかった。ケインズ主義の需要喚起策は成功しなかったのである。余剰生産力は戦争によってこそ強力に解消される。米国は第2次世界大戦によってこの不況から脱却し、「世界帝国」へと発展した。
 2008年、サブプライム問題に端を発した金融危機は米国に再び大きな打撃を与えた。経済不況は1930年代とは違うスピードで世界に波及しつつある。ネット社会の高度情報化社会システムが最大限の暗黒的マイナス効果を発揮した。10月20日、国際労働機関(ILO)は、今回の金融危機の影響で世界の失業者が少なく見積もっても2000万人増加し、2009年代には2億1000万人に達し、過去最高となる可能性があると発表した。事は深刻である。
 経済的格差が広がりつつある日本では、ワーキングプア(勤労貧困層)問題も無視できない。全給与所得者の5分の1が年収200万円以下であり、特に非正規雇用者の割合は2007年度の総務省労働力調査によると、33.5%、1732万人に達している。このうち、約77%は年収200万円未満である。世界恐慌が日本を襲えば、彼らの大半は失業するだろう。非正規社員どころか正規社員の解雇も始まっている。12月9日、ソニーは国内外の合計1万6000人以上の従業員を2009年度末までに削減すると発表、続いて11日、米国金融大手バンク・オブ・アメリカは、今後3年間で従業員を約3万〜3万5000人削減すると発表した。さらに不況が深刻化すれば、教育産業も打撃を受けるだろう。教育は先行投資だと言われるが、先行投資には投資する財がなければならない。財そのものがなければ投資どころではない。私学も私塾も大半は消滅するだろう。サバイバルは容易なことではあるまい。
 2008年から2009年にかけて、国際社会は恐るべき危機に直面しているといってよい。これこそ未曾有の世界大恐慌の前触れではないのか。経済不安は社会不安と表裏一体をなし、経済格差は階層間対立の温床となる。経営破綻と失業率の上昇は、暴動や犯罪を増加させ、階層間の対立は政治不安へと発展する。政治的経済的混乱は社会システムの崩壊へと発展しかねない。秩序の崩壊は新たな強力な秩序を求めるものだ。人類が多大の犠牲を払って封印してきたものが復活するのだ。ファシズムである。軍靴の足音はもうそこまで迫っているのかも知れない。来年の1月20日、バラク・オバマ米国次期大統領の就任式が行われる。だが、オバマ氏に多くを期待してはならない。既得権益の解体と富の再分配は核兵器ほどのエネルギーを必要とする。いや、それ以上だ。それにオバマ氏を操っている陰の力は旧対ソ強硬派だということも忘れてはなるまい。財政赤字を減らすための大幅な歳出削減も富の偏在を解消するための富裕層への増税も、実現は難しいだろう。米国の要求に応じるような日本の安易な内需拡大策も長期的には危険だ。財政的破滅への道を突き進むだけである。拝金主義を切り捨てよう。経済効率至上主義も考え直さねばなるまい。資本主義経済を否定するのではない。節度ある経済活動を行うことが大切なのだ。我々日本人がなすべきことは、技術革新と縮小均衡策に徹し、大不況の荒波を耐えることである。未来を担う子供たちに明日への希望を託して。
 だからこそ、大切なことは、いかなる時代にあっても子供たちは守られねばならないということである。人類の滅亡ではなく、種の存続と発展を望むならば、子供たちの命こそ世界全体の命である。生存が困難な時代にどう対応し、生き抜いていくか、子供たちには今こそ、その力を与えなければならない。手を差し伸べることではない。自力で生き抜けるよう、その力を鍛えることが必要だ。その力とは何か。それは考える力である。自分で考える力があれば、危機からの脱却も、生活基盤の構築と継続が可能となる。少なくとも可能性が出てくるだろう。教育はそのために行われなければならない。
 考える力は知識から生まれる。知識なくして思考することは不可能だ。公教育としての義務教育は国民にこの基本的知識を与えることが目的でなければならない。基礎的計算力は勿論、現代社会を支える数学の基礎力、国民として必要な国語力、日本人として大切にしたい伝統文化や歴史への理解、将来の技術革新を担うために必要な科学知識、地球に生きるものとしての地理や環境への関心、等々。こうした核となる知識が個人の自立を促し、社会人として生き抜くために必要な考える力を育成するのだ。徳育と体育は言うまでもあるまい。文武両道は教育の根幹である。
 先の見えない時代に突入した感がある。しかし、今、目の前で学んでいる子供たちには大崩壊の時代を迎えても恐れることなく、生き抜いて欲しいと思う。
 塾人としてなすべきことをなす。生き抜くことが困難な時代だからこそ考える力が必要なのだと、学ぶことが大切なのだと訴えていきたい。

2005年<10月号>

 先日、国際情勢のサイトにロンドン発の興味深い記事を見つけた。EU問題である。単一通貨ユーロを導入し、25カ国までに拡大してきたEUは、今や経済力においては米国と肩を並べる、言わば「ヨーロッパ合衆国」といってよい存在である。そのEUに対し、イギリスのブレア首相は新たな改革案を投げかけている。その骨子は「国家からの補助を廃止し、サービス分野の自由化を進め、雇用市場を流動化させる」というものである。官から民へという社会的潮流は日本だけではないようだ。いや、こうした民間へのパワーシフトがこれからの国際社会の目指す方向なのだろう。アメリカ社会学会の重鎮であり、ホワイトハウスの政策決定にも大きな影響を与えてきた、アミタイ・エツィオーニはその著書「ネクスト」の中で、「国家と市場とコミュニティーを均衡させる」ことがこれからの人類の進むべき道だと説いている。しかし、国家の関与が弱まると、一般的に労働者の解雇が増え、労働時間は増える傾向がある。警戒を要する点だろう。日本の教育界も教育特区政策など、官から民への方向性を示しつつあるが、公立の中高一貫校の創設など、官側からの巻き返し現象も見られる。官と民との対立と協調こそは永遠の課題なのかもしれない。しかし、制度やシステムがどう変わろうと、教育は学生一人一人の意志と努力が何よりも大切である。若者たちの前向きなチャレンジ精神こそが社会を前進させるのだ。未来を洞察しつつ、しっかりとした基礎学力を固めてもらいたい。諸君の日々の努力に期待する。

2004年<1月号>

 養老孟司氏の『バカの壁』に、「ものすごく厳しい先生は、生徒に嫌われるけれど、後になると必ず感謝される」とあった。「厳しい先生」とは暴力教師のことではない。正しい教育を自らの信念に基づいて子供たちのために厳然と行う教師のことである。小・中・高生は自我が確立されていく発展途上過程である。しかし、放っておけば誰でも自然に正しく発展していく訳ではない。間違いは間違いとし、正しいことは正しいとして教え、守らせねばならない事は守らせ、やらねばならぬ事はやらせ、我慢すべきことは我慢させねばならない。個性の尊重とわがままにさせることを混同させてはならない。戦後の教育で最大の間違いはこれである。モラルの問題だけではない。勉強も同じだ。正しい学習方法は放っておいて身につくものではない。正しい指導と反復練習が必要だ。今の子供の大半は読むことも書くことも話すことも聞くこともまともにできない。ノートの使い方、書き方もろくに身につけていない。彼らのせいではない。教師も親も社会全体が反省すべきなのだ。子供たちに対してまともな教育をやってこなかったからである。こういった指導はモラルにしても勉強にしても子供に迎合しては絶対にできない。厳格に対応しなければならない。そうしなければ、子供たちは正しいとは何なのかがわからず、人としての道も知らない、とんでもない人間に育ってしまう。子供たちはこの社会で立派に生きていかねばならない。大人たちはそのように子供たちを育てねばならない。これは教師も親も全ての大人たちの共通の義務である。経済至上主義と拝金主義が教育の世界にも入り込んでいる。入試制度の改革も学校改革も経営的視点からのものがほとんどだ。教育的視点はないがしろにされている。子供たちの将来を本当に考えるならば、「青田買い」といってもよい推薦制度は全廃すべきだろう。2004年は教育元年とすべきだ。全国民が一丸となって、どのような犠牲を払おうとも、いかなる抵抗があろうとも、教育を正道に戻し、この国を根底から立て直すべきである。北辰館の塾生諸君も心して館長の教育を受けよ。 

<10月号>

読書の勧め

 ここに1冊の本がある。「風俗・習慣・ものの考え方の違う人たちの中へ入って行って、うまく仕事をすすめるのはなかなかむつかしいものだ。言語がちがい、宗教が異なると、ますますやっかいになる。(中略)そういう人たちとどんな接触の仕方をすればよいか。それは理論や観念、あるいは単なる善意で片づく問題ではない。やはり具体的な経験の蓄積が必要なのだ。」(まえがきより。)アフガニスタンのタリバンに対する
米軍の攻撃が続いているが、今回のテロ事件の背景にはイスラエルとパレスチナ人との対立があることを忘れてはならない。この本には、古くて新しい課題とも言える民族や宗教の対立を解決するためのヒントが隠されているような気がする。この本とは、「モゴール族探検記」。著者は梅棹忠夫である。アフガニスタンにおける人類学的探検の記録である。書かれたのは1956年。半世紀も前にこんなすばらしい本が出版されていたのだ。館長は中学生の時に読んだ記憶がある。今、読み返してみても、新たな感動を禁じえない。テレビや映画などの映像文化は人間に刹那的楽しみを与えてくれるが、生涯残る楽しみと深い思索をもたらしてはくれない。これをもたらすのは本である。読書こそが人類を救う英知の源泉である。読書の秋ではないか。諸君、本を読もう。

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