館長より、君へ。 1999年 5〜9月

<9月号>

自立国家を目指せ

 1945年8月15日、日本は大東亜戦争に敗北し、独立国家としての地位を失った。その上、敵であった米国によって新憲法を押し付けられるという未曾有の屈辱にも耐えなければならなかった。その後、1951年に国際社会への形ばかりの復帰を遂げたが、米国軍の駐留は継続され、国土の中にその基地を提供するという隷属国家の状態が続いている。自主的国防権も外交権も有せず、言わば半国家とも言うべき状態で半世紀以上も経過することを許してきたのである。日本国民、いや、日本人は「国民」としての誇りを忘れ、米国の核戦略に利用された温室の中で、疑似平和と経済的繁栄を享受する一方で、自立への道を自ら閉ざし、誇りある国民として生きる道に背を向けてきた。国家を成さんとする民としては、これ以上の堕落はない。古今東西の歴史においても空前絶後と言ってよい。恥ずべきを恥ずべきとせず、一億総国民が、ひたすら亡国への道を歩みつつある。
 この間、この国の教育は何をしただろうか。国民としての誇りを取り戻し、自立国家を建設するための努力をしただろうか。否、断じて否である。自虐史観に支配された文部行政は反日勢力の温床となり、国民の腐敗と堕落を助長しただけであった。その罪は万死に値する。
 20年前、私は国民覚醒の道を武士道に見出し、文武両道塾を設立した。理想と経営という現実の間でもがきながらも、国民としての誇りを取り戻し、屈辱憲法から自主憲法制定、国軍再建への道を託せる人材の育成に全精力を傾けてきた。繰り返し繰り返し、祖国再生への思いを塾生に語り、祖国は自らの力によって守るべきものという当たり前のことを、しかし、必死の思いで訴え続けてきた。これからも命のある限り訴え続けるだろう。
 日本の再生は教育の再生に他ならない。これからの教育はどうあるべきか。それは論をまたない。第一には東京裁判史観から脱却し、その呪縛を解くことである。誇りある祖国の歴史を取り戻すことである。それは祖先の営々たる歩みの延長線上に存在する己を自覚させ、祖霊との一体感を抱かせることであり、自然な、しかし、強固な愛国心の育成につながるものである。第二には、国民道徳とも言うべき新たな教育勅語の制定である。礼儀を重んじ、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、一旦緩急あれば義勇をもって祖国の独立と平和を守らんとする国民の育成こそは教育の根幹とすべきことである。
 我らは自立国家を目指し、戦後の恥ずべき屈辱の歴史に終止符を打たなければならない。次代を背負う諸君の覚醒と奮起を心から期待する。
 

<8月号>

白馬岳の夏

 家族で北アルプスの白馬岳に登った。私のとっては25年ぶりである。アイゼンをつけて一歩一歩踏みしめて登った大雪渓は、高山植物の花々とともに、相変わらず雄大な姿で我々を迎えてくれた。烈風の中、頂上から眺めた剣(つるぎ)と立山の堂々たる姿は、登りの苦しさを一遍に吹き飛ばしてくれた。絶景といって言い眺望を満喫することができた。夕刻、空がオレンジ色に輝き、残照は限りなく赤く、天空は恐ろしいほどに燃え上がり、我々雲上の人間どもは、その落日のドラマに酔いしれた。誰もが、悠久の自然の営みに圧倒されていた。早暁、雲間から新たな生命の誕生を告げるかのような鼓動をともなって、太陽が顔を出した。雲はきらめきながら、滝曇となって次から次へと稜線上を流れていった。上昇気流と下降気流が複雑に絡み合い、白雲は天の羽衣の如く、優美な舞を舞った。この直後、我々は偶然にもブロッケン現象(自分の影が向かい側の雲に映り、そのまわりに虹のような輪ができる現象)を体験した。下山路で見かけた雷鳥といい、何かと話題の多い山行であったが、何よりも自然の雄大さ、素晴らしさを存分に体感できたことは本当に意義深いものがあった。日本は本当に自然が豊かである。この自然を子々孫々に守り伝えていきたいものである。
 

<7月号>

「新しい日本をつくる国民会議」について

 「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)が今月の12日に発足した。新聞に掲載された会長の亀井正夫氏の言葉によれば、「21世紀臨調」には4つの目標があると言う。第1に、戦後憲法体制の見直し、第2に、地域社会と家庭生活、及び教育の再構築、第3に、国民と政治との関係の根本的な改革、第4に、第3の改革を推進する若手議員への支援である。概ね、館長もその趣旨に賛成ではあるが、いくつか、これらに関して意見を述べてみたい。
 何度も繰り返しているように、戦後の日本にとって、最も大切な課題は、真の独立国家になることである。今の日本の独立は形式的なものであって、半国家とでも言うべき状態である。国民が自主的に憲法を作り直さない限り、この国はまともな国とはいえない。屈辱の憲法を半世紀以上に渡ってそのままとしてきたのは誠に恥ずべきである。さらに、自主的防衛権と自主的外交権も取り戻さなくてはならない。米国とは対等な友好関係を結ぶべきである。こうした見地から戦後の体制を見直して欲しい。まずは新憲法制定のための国民会議を招集すべきであろう。そこまで踏み込まねば、21世紀臨調の存在意義はない。
 地域社会と家庭の再構築も、教育の再生も国家の基が定まらなければ不可能である。特に家庭教育の再生には企業の協力が必要だろう。単身赴任なども見直すべきである。経済至上主義、効率至上主義という、戦後の日本社会を牽引してきたエンジンを取り替えなければ日本の社会を変革することは難しい。自由競争は大切だ。これはあくまで社会の根幹として維持しなければならない。しかし、家庭の再生に配慮した企業経営を考えるべきだろう。勿論、社会一般の、特に親の意識改革も必要だろう。各業界に対してどこまで切り込めるか、見守りたい。
 日本の政治社会の改革は国民の意識革命と同義といってよい。極東軍事裁判によって植え付けられた自虐史観から覚醒させなければならないのだ。反日勢力のマインドコントロールを破壊しなければならない。国民として誇りを取り戻し、屈辱を屈辱として当たり前に考えられるようにならなければならない。祖国の安全は国民自らが担うと言う万国共通の普遍の原理をあらためて理解しなければならない。「平和」という言葉のもとに国防の大切さを封じ込めようとする、反日勢力の戦略を打ち砕かねばならない。政治改革とは国民としての意識を目覚めさせることである。
 これからの日本の政治家に必要な能力は、国際社会への鋭い洞察力と、歴史への深い理解に支えられた外交能力である。語学が少々できるぐらいでは話にならない。外国語も大切だが、それ以上に外交的センスを磨くことである。さらに、軍事への対応能力を身につけるべきだ。自衛隊や米軍などへの体験入隊等という低いレベルではなく、勿論そういったことも必要には違いないが、それよりも遥かに高いレベルで軍事問題を考える能力が必要である。平和ボケのお坊ちゃん政治家では無理であろう。真の憂国の士を育て上げなければなるまい。いや、探し出すというべきかもしれない。いつの時代でも、草莽の志士たちこそが国を動かしてきたのだ。
 日本は変革期を迎えている。国家も国民も覚醒しなければならない。読者諸君に期待する。
 

<6月号>

虐殺の歴史

 先日の新聞報道によると、コソボ各地で約1万人が、過去3ヶ月間の「民族純化」で虐殺されたらしい。コソボ平和維持部隊(KFOR)の展開に伴い、さ らに詳細な大量虐殺の実態が明らかになるだろう。
 大量虐殺といえば、ナチスのユダヤ人に対するホロコースト(大量虐殺)がよく引き合いにだされるが、古今東西の人類の歴史を眺めると、決してそれだけではないことがわかる。いや、はっきり言って、人類の歴史はすべて殺し合いの歴史であり、いつの時代においてもお互いに虐殺を繰り返してきた。ローマに敗れたカルタゴは一人残らず殺されたし、モンゴルの征服した土地には虫一匹生き残ってはいなかったと伝えられている。中国史は言うまでもなく、十字軍の歴史も、近代史も、現代の世界大戦も、ひたすら、人間は殺し合いを繰り返してきた。日本が外国から受けた、最も新しい大量虐殺は東京大空襲と、広島・長崎の原爆投下であろう。いや、一般市民に対する戦時中の爆撃は死傷者の数に関係なく全て虐殺といってよい。
 何故、かくも人間は殺し合うのか。この時代を超えた課題を解決しない限り、人類社会に真の平和は訪れないだろう。諸君は、コソボにおけるような紛争や虐殺は日本とは無縁の出来事だと思っているかもしれない。しかし、それは明らかに間違っている。これからも、いや、今日ですら、虐殺の危険は存在している。経済的不安や食糧不安、宗教や民族の対立がある限り、そして独裁志向の権力者たちがいる限り、さらに言えば人間が様々な欲望を持つ限り、虐殺の歴史は繰り返されるだろう。小さな対立や紛争が思わぬ方向に拡大し、世界戦争になる可能性もある。有事への備えはいかなる時も忘れてはならない。「治に居て乱を忘れず」と言うではないか。備えよ、備えよ。
 

<5月号>

憲法調査会の設置

 先日の新聞報道によると、憲法調査会設置のための国会法改正案が衆院議運委の小委員会で起草され、早ければ今国会中に成立、来年の通常国会で衆参両院に憲法調査会が設置される見通しとなった。国会に憲法論議のための機関が設置されるのは現憲法下では初めてのことである。議案提出権を持たないなどの制約はあるが、日本の国家としては、真の独立へ向けて、やっと第一歩を踏み出したと言えよう。憲法論議がまともにできないというのは、余りにも異常な政治状況であって、その意味では、当然の動きであろう。
 しかし、いまだに、憲法改正の動きに対して、軍国主義復活の危険性を叫ぶ者がいるため、今一度、憲法についての問題点を整理してみたい。一つは、現憲法の成立過程に関する問題である。歴史的に見ても、国際的に見ても、戦争に敗れたためとは言え、敵国であった国によって作られた憲法をいつまでもそのままにしている国はない。現憲法が実質的にアメリカ製の憲法であることに異論を差し挟む余地はないだろう。一国の国民としてこれほどの恥はない。よく、内容がいいからそのままでいいのだ、という意見を聞くが、物事の本質を全く理解していない意見である。国民の手によって作るところに最大の意義があるのだ。どうしても改正したくなければ、内容をそのままにして、翻訳調ではない、きれいな日本語で作り直せば良い。憲法は国の背骨であり、国民の精神的な団結力の基盤である。国民の手によって制定されなければならないことは論をまたない。何といっても精神が入らなければ意味がないのだ。国家に対する国民としての誇りがもてないのだ。
 二つ目がその内容である。今回はすべてについて論ずる時間がないので、最も重要な、国家の安全保障についてのみとする。国の安全を他国任せにすることは、最も危険なやり方であり、現在の国際情勢から見て、正気の沙汰とは思えない。国連の力がどれほどのものかは、議論する余地もなかろう。アメリカもいざとなればどうなるか、わかったものではない。とにかく、現実的に考えて欲しいのだ。机上の空論はよそう。反日勢力の子供だまし的平和論にもひっかかってはいけない。自分の国は自分で守らなければならないのだ。日本国民の生命と財産は日本国民の手によって守るのが当然である。戦争に対する反省は良いのだが、それによって、大事なことまで見えなくなってしまってはいけない。自国に対する自立的防衛権を取り戻すべく、国防軍の創設を明文化すべきである。
 諸君に訴えたい。自主憲法制定のための憲法制定国民会議の招集を一日も早く実現すべきだ。諸君の覚醒を切に祈っている。

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