館長より、君へ。 1999年 10月

教育に関する諸考察

(1)教育権と自由

 教育権は本来国民一人ひとりが個別に持っているものである。自分の子に対して親がどのような教育をしようと自由である。勿論、虐待してもいいという訳ではないが、原則的に親の自由であることは明らかにしておきたい。これは教育問題を考える上で最も大切なことである。
 近代国家における学校教育は、親の持つ教育権の補完的行使にほかならない。但し、その国家の政体が民主政体であることが基本的条件になる。国民が主権を有している議会制民主主義のもとであってはじめて、親の教育権の行使を部分的に国家に委任することが容認されるのである。国家権力の教育権への介入はその委任の範囲においてのみ正当化される。近代市民社会の成立と発展は市民一人ひとりがその責任を自覚することが必要であり、その能力を有する市民の効率的育成は市民社会存続の鍵である。産業革命以来の産業国家においてはその国家的要請は急速に増大した。富国強兵を実現する政策の根幹は教育にあるといってよい。しかし、繰り返すが国家権力の関与する教育は自ずと限界がなければならない。その範囲を逸脱するような介入は絶対に許されない。それは全体主義国家の教育にほかならない。
 親の教育権の自由を守ることは民間教育の自由を守ることでもある。民間教育へ国家権力が不当に介入することは、職業選択の自由に抵触するだけではなく、親の教育権への間接的な侵害となる。断固、排除されなければならない。では不当とは如何なる場合をいったらよいか。違法な行為は法をもって処罰されるとすれば、如何なる介入も結局は不当な介入となる。民間教育を抑圧するような立法も許されない。国家は民間教育に介入してはならないのだ。

(2)国家の教育

 国家が行う教育には、二つの目的がある。一つは国民に伝統文化を継承させるという目的であり、二つ目は国家の独立を維持するという目的である。これ以外の目的として政権の維持を狙った政治教育が考えられるが、これは全体主義国家における教育であり、あえて言及するまでもないだろう。
 伝統文化の継承には、母国語の教育が第一に挙げられよう。言語教育なくしては全ての教育は成り立たない。それも単なる読み書きだけであってはならない。討論を含む総合的なコミュニケーション能力の育成が必要である。家庭や地域社会における教育が崩壊に瀕している社会にあっては、学校はそのための大切な教育の場である。第二には歴史教育が挙げられる。哲人ブルクハルトは歴史の連続性を考察し、「世界史的諸考察」の中で次のように述べている。「全てのものは一つ一つ、私たちをも含めて、ただ自分自身のためばかりでなく、全過去と全未来のために存在する」。祖先が築いてきた祖国の歴史の延長線上に自分自身が存在しているという自覚は何よりも生きる力の源泉となろう。それは先人たちの血と汗の記録であり、国民としての誇りを育てるものでなければならない。誇りある人間は自ずと恥を知るものである。恥を知る人間は生活規範を自ずと守るものであり、外来文化を摂取してもそれに汚染されることもない。自らの文化に誇りを持ってこそその文化は継承されるのである。伝統文化の継承は実は国家の存続を約束する。つまりこれは先に挙げた二つ目の目的、国家の独立維持にも関係してくるのである。政治的に征服したギリシャに文化的には征服されてしまったローマ帝国がその後衰退の一途をたどったのもその良い例である。第三には礼儀と社会道徳である。義務を伴わない私権の拡張は忌避すべき利己主義に他ならない。利己的な個人主義が道徳に対して破壊的効果を持つことは、19世紀のフランスの政治学者トクヴィルも指摘している。道徳を復活させるためにはまず、先に述べたように歴史を学ばせ、日本人の意識の中に公民としての意識を取り戻させなければならない。誇りある歴史を学べば、自ずと年長者への敬意と礼儀が身についてくるものだ。本来は家庭教育の範囲であるが、学校教育の大事な柱として良いだろう。
 二つ目の独立の維持は国家の安全保障に関するものであり、簡単に言えば富国強兵を目的とした教育である。ここでいう富国強兵とは軍国主義のスローガンではない。経済的な発展と国防のための教育である。産業発展のためには創造力を持った知的エリートとパワフルにノルマを達成していく労働者が必要である。言い換えれば知識と創造性のバランスのとれたエリートと、創造性はともかく基礎知識と理解力に優れた労働者を育成しなければならない。また、国際的競争社会に適応できる競争意欲と語学をはじめとする競争能力も養わなければならない。一方、国防の根幹は愛国心である。誇りある歴史は愛国心の中核をなす。歴史教育の重要性はここでも論を俟たない。外国に国土を蹂躪されたことがほとんど無いに等しい日本人にとって、国防の議論は精神風土的にはなじまないものかもしれない。まして、大東亜戦争に敗北し、敵国であった米国によって、徹底的な自虐史観による洗脳を受けた日本人にとっては、まだまだ障壁は高いかもしれない。しかし、国防を外国の手に委ねている国家は真の独立国家とは言えない。強い軍事力を持つことは軍国主義とは違う。この違いを多くの日本人が素直に理解できるようになる日まで、日本の戦後は終わらないだろう。有事に対する危機管理や軍事を含む総合的な国家安全保障教育が実施されてはじめて、日本は自立への第一歩を踏み出すことになる。
 

(3)学校と入試制度

 国公立学校も私立学校も学校教育法において規定されている学校であることに変わりはない。教育基本法第6条は、「法律に定める学校は、公の性質をもつもの」としている。要するに、私立も公の学校だということを確認したいのである。つまり、私学精神を尊重しつつも、学校である以上、国家の教育であるという一面は否定することはできない。国家教育の目的に反するような教育は、民間教育ならともかく、公教育としての一面を持つ私学が行うことは許されない。私学の教育権を抑圧せよと言っているのではない。公の教育機関として、その子供たちへの影響の大きさを考えた時、そこには自ずと教育上、あるいは経営上の節度と倫理観が要求されるはずだ。勿論、国公立の学校もそれは同じだが、ややもすれば経営至上主義に陥りやすい私学には注意すべき問題だろう。
 現在、私立高校で一般的に行なわれている推薦制度は青田買いそのものであり、健全な児童生徒の育成とは程遠いものがある。経営至上主義そのものといっていい。ほとんどの生徒を何らかの推薦制度で合格させている私学は教育を語る資格はない。中学入試にしても、高校や大学入試にしても、青少年にとっては大切な試練の場である。人間としての成長に伴う通過儀礼的な意味もあろう。青少年は鍛えられなければならないのだ。試練を与えなければ子供は一人前の人間に成長できない。この当然とも言うべき社会的通念がいつから壊されてきたのだろうか。子供たちには絶対に迎合してはならない。それは青少年を堕落させ、軟弱な人間にさせるだけである。全ての推薦制度は撤廃されるべきである。入試は厳格に行われなければならない。成績順に上から合格が決まる単純にして明確な方法に徹するべきである。これによって経営難に陥り、廃校に追い込まれる私立学校が増えても、断固、英断を下すべきである。受験勉強のストレスを心配する意見もあるが、受験勉強程度のストレスにつぶされる人間の方にこそ問題があるのだ。何故それほどまでにひ弱な子供に育ててしまったのかを問題にすべきなのだ。決して試練を緩めるべきではない。子供を肉体的にも精神的にもひ弱にするということは、その国の発展を阻害し、さらにはその国を滅ぼすことである。反日勢力の洗脳戦略に騙されてはならない。
 公立学校の推薦制度も同様に撤廃すべきである。私立学校との生徒の奪い合いなど、誠に見苦しい限りである。恥を知れと言いたいほどだ。生徒が欲しければ、学校の中味で勝負すべきだろう。
 最近は自己推薦などという制度もある。子供に迎合するのもいい加減にして欲しい。甘やかすのにも程がある。呆れてものが言えない。
 入試の時期についても問題がある。3学期の学習が終了してから行うべきである。3月20日をもって入試解禁日とすべきだ。技術的、物理的にできないなどとは言わせない。これは正論であり、正しいものの見方である。

(4)家庭の教育

 アルビン・トフラーはその著「第三の波」の中で、人類はこれまでに二度、巨大な変化の波を経験したと述べている。第一は農業革命、第二は産業革命である。日本の教育も戦後、大きな波をかぶっている。第一は占領軍による対日戦略という波。第二は高度経済成長という波である。
 第一の波は、歴史を否定され、根無し草の民となった日本人に、精神的規範を伴わない個人主義を吹き込み、公民としての義務を等閑に付し、私権の野放図な拡張にいそしませた。未成熟な子供を一人前に扱うことが良いことだと洗脳された。社会的義務を果たせないものに権利のみ主張させたのである。礼儀も道徳も木っ端微塵に粉砕された。日本人の精神的堕落はここに始まるのである。敵に押し付けられた憲法を恥とせず、自らの力で国を守る気概を葬り去られた国民に残された道は亡国しかない。次代を背負う若者の教育などできるはずもないのだ。親に公民としての意識がなければ、家庭においても、子に対して公民としての社会道徳を躾ることなど無理である。今日の学級崩壊や学校崩壊の根本的原因はここにある。
 第二の波については、トフラーが「第三の波」で産業革命について述べている部分が参考になろう。「第二の波が第一の波の社会の上に押し寄せるにつれて、家族も変化の力を感じ始めた。個々の家族の中で二つの波のぶつかり合いは、家族成員間の争い、家父長権への挑戦、親子関係の変容、新しい礼儀概念の誕生などという形をとって現れた。経済的生産の場が田畑から工場へ移るにつれて、家族は一単位として共同作業をする必要がなくなった。(中略)労働者は、職業の命じるままに、土地から土地へ移動しなければならなくなった。」もはや多くを語る必要はないだろう。核家族化、単身赴任、離婚率の増加、父親不在など、教育の場としての家庭は完全に崩壊したのである。
 家庭の教育を復活させるためには、自主憲法制定と自立的国防体制の再建による親の意識の変革から始めなければならない。国民全体が自虐史観から脱却し、誇りを持った国民として覚醒することも必要だ。社会的責任を果たせない未成熟な子供を、一人前の社会人になれるように教え導くという意識もなければならない。さらに、企業や学校の協力も欠かせない。一家団欒を実現させるには、単身赴任制度の見直しや部活動の時間的束縛の異常さを反省すべきだろう。塾の影響を云々する者もいるが、時間的、肉体的影響は部活の方が圧倒的に大きい。そもそも通塾はどのような形にせよ、基本的には自由であって、塾側に強制力はない。会社や部活動における実質的強制力を伴った時間的束縛とは同列には論じることはできないのだ。塾に対する誤った社会的通念を取り除くことは喫緊の課題である。
 

(5)平等化の弊害

 運動会の徒競走で順位を付けない、成績評価は全員をオール3とするなど、学校教育における悪平等主義は今でも根強いものがある。戦後の教育を考える時、どうしても避けて通れない問題がこの平等化の弊害である。
 自由な民主社会にあって、許される平等とは「法の下における平等」のみである。個人個人がその置かれている環境の中で、そのあらゆる能力を駆使して競争し、切磋琢磨することこそ、人間らしい本当の生き方である。「法の下における平等」も本来、人間が平等でないからこそ容認されるのである。今世紀の経済学者ハイエクも、「人々が平等でないからこそ、我々は人々を平等に取り扱うことができる」(「市場・知識・自由」より)と述べている。結果における平等を求める悪平等主義は個人の向上心を抑圧し、健全な精神を腐敗させ、人間として堕落させる。自由な競争を否定する社会は若者の未来へのエネルギーを喪失させるだけではない。国家をも崩壊させ、死滅させる。平等化教育の弊害はどんなに強調してもし過ぎることはないだろう。自由と平等とは敵対関係にあるのだ。自由にとって平等の観念程危険なものはない。
 平等主義の更なる危険性は全体主義へとつながることである。平等主義は過去を否定し、歴史の連続性を遮断する。伝統文化を破壊し、忘却せしめ、その結果、道徳も家族の結びつきも全てを消滅させる。そして、バラバラとなった個人個人を新たな国家権力をもって集合せしめるのだ。全体主義国家の誕生である。左翼にしろ、右翼にしろ、全体主義は人間性そのものを破壊する、恐るべき敵である。全体主義だけは絶対に認めてはならない。
 教育は高貴な精神が必要である。誤解を恐れずにあえて言えば、自由の旗の下に死す覚悟が必要なのだ。自由というと、経済的視点が優先されることが多いが、自由なる競争を尊ぶ精神の教育こそが大切なのである。勿論、ここに言う自由とは何をしても良いという自由ではない。真の自由は自ずと規範を伴うものだ。権利と義務のバランスと言ってもいい。真の自由を守るためにも平等主義は粉砕しなければならない。
 戦後半世紀以上にわたって、文部省は何をしてきたのか。伝統文化の継承に力を入れず、自虐史観によって祖国の歴史への誇りを奪い、日本人の公民としての意識を破壊してきた。平等主義教育に対しても拱手傍観するのみ、断固たる態度は微塵もなかった。結局は国民精神の腐敗と堕落を助長しただけである。反日勢力の温床に成り下がったとでも言おうか。真にこの国を愛する国民に対して、その罪は万死に値する。文部省に国民としての愛国心と自由を守る気概が少しでも残っているのならば、この国の教育に巣くう平等主義を根絶すべく勇気を出して立ち上がってもらいたいものである。

(6)教育の再生を目指して

 教育は国家百年の大計であり、国家存立の基盤である。どんなに立派な法や制度が存在しても、公民としての意識を有する国民の存在に裏打ちされていなければ、それらは何の意味も無い。
 1945年8月15日、日本は大東亜戦争に敗北し、独立国家としての地位を失った。その上、占領軍によって押し付けられたも同然の新憲法を施行しなければならなかった。幕末、ぺりー来航に際し、やむなく不平等条約を締結して以来といってもいい国家的屈辱を耐えなければならなかったのである。その後、1951年に国際社会への形ばかりの復帰を遂げたが、米国軍隊の駐留は継続され、国土の中にその基地を提供するという隷属国家の状態が続いている。自主的な国防権も外交権も無いに等しい、言わば半国家とも言うべき状態で半世紀以上も経過するすることを許してきたのである。多くの日本人は、国民としての誇りを捨て、自立への道を閉ざし、米国の核の傘の下での経済的繁栄のみを享受してきた。未来へ戦略も無く、刹那的な享楽の風潮に汚染され、この国の精神風土は救い難い程に腐敗し堕落してきた。恥ずべきを恥ずべきこととせず、ひたすら誤った利己的個人主義を振りかざしてきた。さらに反日勢力の平等主義化への洗脳戦略がそれに追い討ちをかけた。ただでさえ極東軍事裁判による自虐史観に洗脳されていた一般国民は一たまりもなく蹂躪された。もはや、この地に伝統文化は消滅し、人として生きる道も廃れ、祖霊は崇められなくなった。このようなことがいつまでも許されて良いものだろうか。必ずや天罰が下るであろう。今、日本は確実に亡国への道を歩み始めている。
 健全な教育などどこを探せばよいのだろう。あるはずがないのだ。この国の教育の崩壊は屈辱の憲法を受け入れた時に約束されていたのである。当然の報いであり、この国の宿命である。しかし、この国の本然たる姿を望む者にとって、それは余りにも酷いことである。再生への道はないのか。我らは何をなすべきなのか。
 我らは第一に自立国家を目指すべきである。真の独立国家になるのだ。戦後の恥ずべき屈辱の歴史に終止符を打つのだ。そのためには新たな憲法を国民の手によって制定しなければならない。国防軍も国民の意思によって再建しなければならない。
 第二には諸悪の根源とも言うべき自虐史観を断つことである。誇りある祖国の歴史を取り戻すことである。それは祖先の血と汗の営みの延長線上に存在する己を自覚し、祖霊との一体感を抱かせることである。祖霊との一体感は先祖への崇敬の念を呼び覚まし、伝統文化継承への使命感を抱かせるであろう。祖国への誇りは愛国心そのものである。国民一人一人の愛国心は国家再生へのエネルギーとなろう。
 第三には、国民道徳とも言うべき、新たな教育勅語の制定である。屈辱憲法に基づいた現行の教育基本法は全面的に改正されなければならない。礼儀を重んじ、親には孝行を尽くし、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、一旦緩急あれば、義勇をもって祖国の平和を守らんとする国民の育成こそは教育の根幹となすべきことである。
 ここにおいてはじめて、この国は国家として本然の姿に戻り、教育もまた息を吹き返すであろう。再生の道はあるのだ。キーワードは「国家」である。国家主義や国家至上主義の「国家」ではない。国民としてのアイデンティティーを喪失してしまった日本人が、自分自身を取り戻すために必要な国家意識のことである。日本国民における国家意識の復活こそこの国の教育を救うのだ。最後に思想家エドマンド・バークの言葉を借りながら拙稿を終えたい。国家とは「現在に生存している者の間の共同の組織たるにとどまらず、現存する者、既に逝った者、はたまた将来に生を享くべき者の共同の組織」(「フランス革命の省察」より)なのである。
 

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